Colum
3月は新型コロナウイルスによって世界中が混乱し、この世界が崩壊するのではないのかとさえ思える事態になった。
とても現状や将来を見通すことが難しく日々変化をする巨大なうねりに翻弄される日々が続き頭の中が混乱したので
とても文章を書くところではなかった。
やっと中国の感染が少し収まり冷静に判断できるようになったので二か月まとめて巻頭言を書くことにした。
まず私は今回のコロナウイルス現象に対して二つの問題を考えてみたい。
一つはウイルスとは何か、今後このようなことが起こりうるのか、人間はこれに対してどのように対処したらよいのかという問題である。
二つ目は感染症が発生した場合今の人間の社会は耐えられるのか、もし耐えられないとしたらどのような社会改善をすればよいのかという問題である。
まず第一の問題である。
この問題は極めて科学的な問題で多くの生物学者、医学者が長年に渡って研究をし様々な分析結果と対策を提案しているのでその一部を紹介してみたい。
そもそもウイルスとは何なのか、目に見えない極小物質であるが生物なのか無生物なのか?色々言われているが生物学者の福岡氏によると「生物と無生物の間を漂う奇妙な存在である極小の粒子」ということになる。
別の言い方をすると①細胞が無い②エネルギ-を作れない③寄生しなければ増殖できない④遺伝子をもっているの四つの特徴を持ち宿主の細胞に遺伝子を結合させる働きがある。
ウイルスは地球に生命が誕生した初期から進化に関係していたらしいが今発見されているウイルスは高等動物が登場してから現れたものである。
「自然界には生物のいる環境ならウイルスは必ずいる。その数と多様性は驚異的である。1ミリリットルの海水中に1,000万個のウイルス粒子が存在する。
即ちたんぱく質でできた殻とその中にある遺伝情報がウイルスである」と朝日新聞の科学欄に書いてある。(4月6日朝刊)
ようすれば「自然界に存在するウイルスのうち病気を起こすウイルスは1%で残り99%は病気を起こさない」と大阪大学の松村教授は推定している。
ではどのようなウイルスが突然人間に乗移り病気を発症させるか?その謎は未だ解明されていない。
考えられる原因は人類による環境破壊や気候変動人類の行動の活発化など複雑に絡み合った自然の変化があるウイルスの突然変異を起こしているのではないかと考えられる、しかしこれも確かではない。
今までも幾度となく世界的感染症が発生し人間の大量死が起こっているのであるからそんな単純な動機だけではないと思われる。
したがって今後も起こりうるしその規模も発生もメカニズムも異なるので単純た対策では抑えきれないと考えるべきである。
京都大学の中山博士が述べた「このままでは人類は消滅するかもしれない」と言われた言葉は警告だけではなく人類への予言かもしれない。
人間は未だ自然現象の10%も正確に理解できていないとは科学者の名言である。
自然を侮るものは自然によって滅ぼされる。
我々はまず謙虚に自然を理解し共生を考えるべきであろう。
ウイルスとの共生共存も自然の摂理と考えて対処すべきである。
ましてウイルスとの戦争だ闘争だといってもそんなに単純ではないと心得るべきであろう。
第二に考えることは目下世界中の国家という枠組みの下で生活している人間は自分たちの社会、即ち国家組織の中でどのように生きていくべきかをこの際もう一度考えたほうがよいと思う。
今回のコロナウイルス発生に対して各国政府の政策は様々でまさに各国の政治状況を図らずも明確に示したことが大きな教訓となっている。
発生は中国であったが中国は世界190ヵ国の中で数少ない社会主義国でありある意味で世界一の監視国家と見られている。
しかしこのシステムがコロナ発生から感染防止の為の都市封鎖という強力な政治手段でウイルス封じ込めに成功し4ヶ月で何とか感染拡大を防ぎ止めたのは注目に値する成果であった。
米国はトランプ大統領の楽観論で3月に入ってすぐに猛烈な感染拡大が始まり4月初旬には感染者32万死者1万人となった。
西欧自由主義民主制国家群でイタリア、スペイン、イギリス、ドイツ等は一部自然免疫の獲得を待つ方式を採用し結局感染拡大を防ぎきれず急速な医療崩壊と死者の増大を招いてしまった。
4月上旬現在尚拡大は続き収束の気配は見られない。
今世界は社会的にも経済的にもグロ-バルとなり人物金が国境を越えて流れるようになり一国での監視社会は意味がなくむしろマイナスイメ-ジで見られるようになっているが今回のコロナウイルスの拡散状況をみるとこの自由が果たして良いのか疑わしくなってきた。
人間の自由が大切だという思想はヨ-ロッパが生み出した思想で人間の近代化社会の大きな基礎となっている。
しかし最近この自由が揺れている。
何故か?それは自由という反面で無秩序を生み資本主義の根本である個人資産の自由が極端に肥大し人間の格差がとめどなく大きくなり歯止めがきかなくなってきたのである。
もちろんこの個人資産の肥大化は科学技術の進歩によってAI、インタ-ネット等の発展が物質の裏付けなしに富を偏在化し格差社会を生み出してきたことが大きな理由となっている。
そして社会状況の行き着く先が金融資本主義で株や金融取引が中心の社会になりその結果「今だけ、金だけ、自分だけ」という人間を生み出したのである。
この社会での風潮の中で統制の利かない人々をコロナウイルスが襲いたちまち爆発的な感染と医療崩壊による死者激増を生んだのである。
このような社会秩序が緩んだ国では犯罪が増加し貧困が益々進み国家間の紛争が多発しそれがまた国家間の軍備拡張を呼び結局ますます貧困な民衆が増えるという悪循環に陥っている。
一方AIインタ-ネットの発展が国の統制に積極的に利用され監視カメラによる民衆の動きが把握され交通犯罪や個人情報から詐欺や泥棒殺人犯等の犯人逮捕にまで利用される国家が出現している。
その典型的国家が中国であると言われている。
一部の国からは監視国家は個人の自由を奪いプライバシーを侵害する監獄国家だと非難され怖い恐ろしい国というイメ-ジで報道されている。
しかし実際にはその国に15億の人々が生活しその人々の生活が次第に向上し安全安心の社会が実現しつつあるとの報道も多数発信されている。
貧困が減少し生活が安定しることは悪いことではないしどの国家でも目的は国民生活の安定と向上であることは共通しているのではないだろうか。
統制が利かなくなって国中が乱れれば一番被害を受けるのは権力のない弱者である民衆であろう。
西欧の統制が取れていると思われる国において今回のように国家が感染防止の政策を打ち出してもそれに従わない人々が多ければ結局感染爆発によって被害を受けるのは国民である。
また国家も感染者を特定しようにもその方法はなく結局都市封鎖のような非常手段となり国家の強制力を発揮せざるおえなくなるのである。
これでは監視国家の強制力と同じでありむしろ効果は遅くなりその間の被害を大きくしてしまうだけである。
監視国家と法に基いた民主制国家とどちらが国民を幸せにするのか意見の分かれるところであるが、今回のウイルス事件を見ると非常事態が発生し国民の生命が脅かされる事態になった時どちらの社会システムがよりよく機能するかを見れば監視社会の方に軍配が上がる。
ただしこの監視社会の欠点は誰が監視をするのかその人間の質が問題になる。
もし質の悪い人間が監視側の権力を握れば人類の悲劇以外の何物でもなくなる。
その点が解決できれば監視社会も捨てた物ではないと考えるがどうであろうか?
フランスの哲学者ミッシャル・フ-コは民主制による国家権力から解放された次世代は監視社会になりそれは普段に監視されているという意識が人間自身で規律を内面化し自分の規律権力を生み出す社会になると予想している。
この監視社会は今言われている監視社会とは質的に異なる社会であろう。
目下監視国家の実験国家になっている中国の場合SNSが発達して多くの大衆が自分の意見を拡散することができるのであまり監視について不安を感じていないとの報道もある。
個人情報の保護について中国の若者は「今のようにAI中心の社会になればプライバシ-という言葉は無くなる」と言っている。
我々とは感覚が全然違っているのに驚かされる。
一般的に監視社会は監視されることによって個人のプライバシーが侵害され自由が束縛されるのが問題だと言われている。
しかし今ここで考えなければ我々の個人のプレイバシ-の中で何を秘密にしなければならないのかという問題である。
もともと個人の生活内容や個人資産は内密にしておきたい問題であるが個人生活の大部分は学校や勤務先に申告してるものが大部分であり家族構成はすでに公的に発表したと同様である。
また個人資産の大部分は税金の対象であり税務署や銀行を通してこれも半公的に把握されておりあまり秘密とは言い難い状況である。
それではそれ以外に秘密にしておきたい問題はなにか、多分それは個人の考え方宗教思想などの監視対象になりにくい部分ではなかろうか。
つまりその国の統治者の考え方に反対する意見や思想を持っていた場合それを秘密にしておきたいと思うであろう。
ここではっきりしてくることはその国の統治思想に反対する意見を述べる機会を民衆に保証しているシステムが民主制政治システムと言われている。
つまり言論の自由といわれるシステムである。
しかし今その民主主義システムが揺れている。
このシステムは自由な選挙と法による統治を基礎としているが最近の自由主義国はAIの発展により大多数の国民がスマホを持っておりSNSを通して自由に発受信を行い広く人的交流を行っている。
それを利用して統治者側がフェイクニュースを流し国民を平気で騙す政治テクニックを用いたり、選挙の票を金で買ったり一部の人間の利益誘導を行ったり色々な方法で自分たちの権力の維持を計ることが行われている。
これで果たして本当の民意が集約できるだろうか。
まさに民主主義でなく権力主義に陥っている。
民主主義の基礎は民衆の教育である。
往々して権力統治者は自分の都合の良い方向に教育を誘導する。
中国はもちろん自分たちの統治思想を中心に教育を行うし、イスラム世界も同様資本主義国も同様に資本主義の絶対性を当然のこととして民衆を教育する。
ロ-マの昔から政治家は民衆に娯楽とスポ-ツを与えればそれで良いと考えていたと歴史書に書いてある。
米国はもっと質が悪い。
FBIのスノ-デン氏が暴露したように他国の最高指導者の個人情報まで盗んでいる。
このような民主主義が国民の格差を生み教育の機会均等さえ奪って大衆意識を操作している。
要は社会主義だろうが民主主義だろうが人間を統治する人間のやることは何れも民衆の監視である。
自分たちを邪魔する人間は排除する、その為に常時監視をする。
どこに正義があるのか、フ-コが言うように常時監視される人間は自ら監視されているという意識が規律を内面化し秩序を尊重する人間になっていく。
それならばせめて人間社会の稟議道徳に違反する人間は監視によって排除したほうが少しでも快適な生活になるのではないか。
何となく今まで常識と思っていたことが技術の発達と世代交代による考え方の変化によって常識ではなくたってきている時代になり社会の在り方も変わらざる追えないのではなかろうか。
21世紀22世紀の世界はコロナウイルスのような感染症や技術の進歩によって今まで想像もしたかった社会に変貌するのかも分からない。
そんな予感がする今回のウイルス騒動である。
今回のウイルス現象鎮静後我々の生活はなんらかの変化がくるだろう。
また社会も政治も経済も金融も大きな影響を受けるだろう。
大きなショックを受けた人類は今後この現象をどう捉えどう自分たちの生活に反映させていくだろうか。
人間の知恵が試される時がきた。
2020年4月10日 藤村 明