巻 頭 言

Colum

1月巻頭言

「文豪 魯迅に学ぶ」

昨年12月は私の入院等があり巻頭言を省略させて頂き失礼致しました。
激動の2019年が終わったが、2020年はさらに激しい嵐の予感がする幕開けとなった。
あえてこの時にまた何故100年前に活躍した中国の文豪魯迅に思いを馳せ、何を伝えようとしているのかいまさらと言う気持ちを持たれる方も多いだろうし、また「魯迅って誰」というまったく関心のない若い人も多いだろう。
しかし人類の歴史の中で未だにギリシャ哲学や数学が人々の知識の基礎になったり、カントやマルクスが現在人類の思想を形づくる事を考えると、20世紀に活躍した魯迅の考え方は古いというほど古くはなくまた現在の人間にとって学ぶ対象になっている事は疑いない事実である。
特に漢字圏諸国である中国を始めとして日本、朝鮮、東南アジアの一部に今も大きな影響力を持っている。
最近 佐高 信の「いま、なぜ魯迅か」(集英社新書2019年10月22日出版)を読んだ。
佐高さんは山形県鶴岡市の出身で背筋に一本太い丸太の入った経済評論家である。
彼がこの本を書いたのはご本人曰く「自分の思想史」であると書いておられる。
私は学生時代中国語を学んだので当然のように魯迅に接して育った。
学生時代の語劇祭にも「阿Q正伝」を演出したこともあった。
また就職にしてから赴任した所は仙台だったので、そこで魯迅が学んだ東北大学医学部(旧仙台医学専門学校)の旧跡をみて再び魯迅に接した。
一口に言って魯迅の精神は第一に徹底した人間の「奴隷根性」に対する批判であり、第二には「馬々虎々」※ママフフ(いいかげんの精神)の追求であり、第三には「報復の論理」である。
魯迅は第一の奴隷根性については色々な文章で徹底的に批判しているが、その表現が最もよく出ているのが有名な小説「阿Q正伝」である。
阿Qは自分がまったく力の無いホ-ムレスみたいな人間であるが、ある時革命軍の振舞いをみて「自分も革命党員」になると勝手に思い込み革命党のふりをして大騒ぎとなりその果てに捕らえられ死刑になるのだが、最後までいい加減だが革命党のふりをして死んでいくのである。
この阿Qに生き方の中に、中国人の当時の「奴隷根性」「馬々虎々」的生き方を描いているのである。
竹内好氏は魯迅の言葉の中で「奴隷と奴隷の主人は同じものだ、奴隷は主人に所有されて自由ではないが奴隷の主人も奴隷を所有することによって自由ではない。したがって人間の解放は奴隷が奴隷の主人にのし上がる事によってではなく、人が人を支配する制度せのものを改革することによってしか実現しない。
その為には奴隷精神からの脱却が主張されなければならない」と言っている魯迅の精神を高く評価している。
いま我々が言っている自由とは何か?
香港の若者や台湾の若者、また日本の若者が言っている自由とは何なのか、根本的に考えなければならない。
人は容易に何かの奴隷になりうる。
しかも本人は自分が何の奴隷になっているかさえ気づかないでいる。
そのような現象が今の世界を覆っているのではないだろうか。
魯迅は彼が生きた20世紀初頭の中国社会の苦難のなかで中国が半植民地となり日本帝国主義の侵略にあい大衆は何をどうしたら分らずただ右往左往して生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い詰められている現状を見てもなお支配者の悪行だけでなく民衆の奴隷根性からの脱却こそが民衆を救う道であることを必死で説得した人物である。
私は今の日本の現状は当時の中国とは経済的政治的側面は異なるが、精神的側面は同じように思えるのである。
米国の圧力で我々の生活は必ずしも自由ではないし文化的にも民族的アイデンティティ-を失いつつある今こそ日本人の本当の姿を明らかにして民衆の奴隷根性、すなわち今だけ(時間の奴隷)金だけ(経済の奴隷)自分だけ(自己満足の奴隷)の首かせから解放されなければならない時だと思う。
魯迅の言う奴隷根性からの脱却は言い換えれば自分の主体性の回復である。
それは自分だけの問題ではなく広く世界の人類との共存を願う普遍的原理でなければならない。
我々は今こそもう一度文豪魯迅が苦難の中で血の出るような思いで叫んだ精神に学びたいと思う。
最後に私の好きな魯迅の言葉を書いて日本の若者に贈りたい。
「希望は元々有るとも言えないし無いとも言えない、それはちょうど地上の道のような物である。その実地上には元々道は無かった、歩く人が多くなれば、道が出来るのだ」(小説 「故郷」の最後の文章)魯迅に学び彼の歩いた道を多くの人々が誇りと友情を抱いて歩いていきたいものだ。
そして次に続く人たちもまたそこを歩いて行けるような道を作っておきたいと思う。
2020年新年にあたり心からの願いである。

2020年元日 藤村 明