巻 頭 言

Colum

10月巻頭言

「香港を思う」

最近香港でデモが多発している。
香港は私にとって、1969年から中国渡航の往復で何十篇となく通過したり、実際に香港の友人と商売したりした思い出の多い土地である。
最初の頃は、実際に通過する時、中国側深圳との国境にある鉄橋を歩いて渡る為、香港側の英国兵に送られて橋に入り、中間にある鉄柵の開いた部分を越えて向い側に入り、中国人民解放軍の兵士に迎えられて入国(境)したものだった。
帰りはその反対である。
当時は空路直行便のない時代だったので入境はほとんど香港経由であった。
中国側の深圳は牧歌的で駅周辺の田圃で水牛がのんびり歩いており今の深圳(人口1000万の大都市)からは想像も出来ない風景であった。
帰りは出境時に1人1人名前を呼ばれて小さな部屋に入り、カバンを全部開けて点検された。
私の友人でこの部屋から出られず、そのまま北京に連行された者も居た。
橋を再び渡って香港に出た時正直ホットした気分になった事を覚えている。
確かに香港は当時から自由の雰囲気があり逆に何でもありの地区だった。
泥棒あり(実際私も何度か痛い目に会ったし、同伴のユ-ザ-も何人も泥棒に会っていた。)売春宿あり偽物の店あり、高級品の店ありで、何でもあった。
よく深圳から出て来た時には新聞記者と称する怪し気な人物によくインタビュ-された。
最も日中関係が緊張していた時には、香港の友人から、私が何気なく入ったレストランの事で注意された事があった。
それは私の入ったレストランが台湾系の店で、そこに出入する人間は必ず監視されているから気を付けてくれとの事だった。
若し中国へ入境したいならあの店へは立入らない方がよいとの事だ。
それ程左右の対立は香港でも厳しかった。
しかしその後毛沢東時代が終り文革も終息してからは、逆に香港の財閥が続々と大陸への投資を拡大させ、香港の雰囲気も徐々に変化して行った。
事ほど左様に香港は昔から中国本土と密接不可分の関係にあり、特に新中国成立後毛沢東は戦略的に香港を残し世界の窓口として留保し、英国は香港の収益を保留する事を条件に西側世界で最初に新中国を承認した国となった。
予定通り香港は中国の窓口として経済的に繁栄し、日本も香港を通して新中国との貿易を拡大して行った。
この事によって香港と中国との経済的結び付きは強固になって行ったのである。
しかし一方香港から中国への入境、中国人の香港への出境は厳しく制限され、毎年相当数の中国人が香港へ密出境して来た。
私が香港を通過する際に目にする光景は食料の大部分、水の供給は早くから中国が担っており九龍駅には毎日生きた豚が数千頭貨車で送られてきていた。
これは取りも直さず中国の外資獲得の大きな材料となっていたし、逆に言えば香港人の生活は大部分中国に依存していた事になる。
今から22年前即ち1997年英国と中国は条約を結び、香港を中国へ返還した。
これは1840年アヘン戦争によって香港を英国が植民地にしてから157年経っている。
 この香港返還については香港新華社の支社であった許家屯氏「香港回収工作」(筑摩書房刊1996年)に詳しく書いている。
これを読むと香港を英国から取り戻す為に、中国の中央政府がどの位苦労したか、そして更に北京と香港の人々が協力して一国二制度の香港を創り上げる為に並々ならぬ努力をした事が良く分る。
許家屯氏は1983年新華社香港支社長(実質的中国大使同様の権限を持っていた)を命じられて香港に赴任しそれから6年7ヶ月の間様々な利害対立が複雑に絡む香港をまとめ上げ香港基本法の決定をみて退任し、その後米国へ移住した人物である。
彼の努力なくして現在の香港の一国二制度は無かったし、今の香港の繁栄と安定も無かっただろう。
1997年6月30日に遂に英国の157年の統治は終了し、香港の植民地としての歴史は閉じられたのである。
この香港の歴史を今の香港の若者は当然学んでいるだろうが、中国は如何にして西欧列強や日本の侵略から解放を勝ち取ったか、そして中国の栄光を取り戻したか、現在でも行っている若い人々は理解しているのだろうか?
英国統治が終了した後の香港は当然一国二制度の下、大陸の資本も入れ、香港資本も大陸で利益を上げ、今日の繁栄を築いてきたのは事実である。
しかし中国本土の経済発展の為、窓口となって働いた香港は、あの狭い土地に500万人(現在は720万人の)人口を抱え単独で経済が成り立つわけは無く、あくまでも中継貿易や金融取引によって経済を成り立たせざる得ない地政学的立位置にあることは今も変わらない。
中国が鄧小平の改革開放政策によって1985年以降、急速に経済発展し世界第二位の経済大国になるに従い香港の地位が相対的に小さくなっていったのはやむ得ない事だった。
当然本土との格差が広がり香港の人々、特に青年の前途は必ずしも明るく無くなったのも事実である。
この様な不満が背景になって今回のデモが惹起されたであろう事は容易に想像できる。
しかし、だからと言って暴力行為を繰り返すデモは統治側が黙って見逃す訳はなく、当然警察との衝突に発展する。
新聞やテレビは今にも香港が暴動によってひっくり返るような書き方をするが、冷静に見て香港経済に大きなマイナスをもたらすだろうが崩壊には至らない。
ましてや外国勢力が干渉するなどはありえないのである。
したがって「Be Wator」として司令塔無きデモはどこかで終息せざるお得ないのではなかろうか。
10月1日国慶節に中国が干渉するのではないかと報道されていたが結局何も起こらなかった。
一国二制度を堅持すると習近平が再び宣言してまったく干渉は無かった。
当たり前である。
結局香港の政治は香港の自治政府に委任されているので、彼らとの妥協以外にデモは解決しないだろう。
せっかく苦労して創った一国二制度をそう簡単に壊すほど中国中央政府は愚かではないと私は思う。
香港の人々が民主主義を標榜するなら徹底的に民主主義的方法で解決すべきではないか。
暴力を振るえば暴力で鎮圧される。
その方法が香港の将来をよくするはずがない。
私は香港が好きだ。
何十篇と通過し歩いたのであの喧騒は懐かしい。
香港の人のたくましさ、商売熱心な姿は頼もしい。
一国二制度は50年間約束されている。
その間にどのような香港を創造するか、香港人に託されている。
しかし香港が中国の一部になった事実は変えられない。
その変えられない条件は香港の人々も同意してできた歴史である。
再び外国の奴隷となる必要はない。
自分達の未来を中国大陸の人々と共に創造し将来を共有すべきではないか。
香港回収工作を書いた許家屯氏は「香港の発展が将来の中国にモデルになるかも分らない、そうあってほしい」と述べている。
香港はシンガホ-ルと違い、台湾とも違う。
立ち位置が違うのである。
逆に香港の地の利を生かして自分達の繁栄を築く知恵を出すべきであろう。
私は香港が好きだからこそ、そのように知恵を絞る人々を応援したい。
一国二制度に反対するのではなく、積極的にこの制度を磨き上げ、将来の繁栄と平和の為に尽くしてもらいたいと心から願う。

2019.10.20 藤村 明